『高橋尚子が残したもの(前編)』
(2008年11月12日 16:38)
涙の意味
10月28日。高橋尚子が現役を引退した。
一時間余の記者会見後、最後の締めの挨拶を終え立ち上がろうとする高橋にどこからともなく一斉に拍手が沸き起こった。この手の会見ではほとんど記憶にない光景だった。長い間、彼女と共に歩んできた記者にとって、感謝と名残惜しさが自然と手を動かしたに違いない。予想だにせぬ彼らからの"贈り物"に高橋は涙で応えた。それはプロランナー・高橋尚子が我々に送った最後のメッセージであり、証明でもあった。
「自分が歩んできた道に間違いはなかった」と。
順風満帆
ランナーとしての晩年は故障に泣かされ続け、高橋はほとんど万全な状態でレースに臨んだことはなかった。
しかし、98年の二度目のマラソン(名古屋)を日本記録で初優勝して以来、シドニーオリンピックの金メダルを含め6連勝をしていた。とにかく、走れば一番でゴールテープを切ってくれるものと誰もが確信する強さだった。
06年、雨中の東京国際女子マラソン。オリンピック代表選考を兼ねたレースでまさかの失速。初マラソン以来、初めて日本人選手の後塵を拝してしまった。
「とても楽しい42キロでした」
シドニーオリンピックでは笑顔でこう答えていた。
「40キロも走るなんて人間業じゃない」と、それまでマラソンランナーを超人扱いする時代があった。それを「楽しい」のひと言で片づけてしまう。しかも、笑顔でだ。以降、日本のジョギング人口は八百万人から一千万人を超えたといわれる。もちろん、"Qちゃん効果"であることはいうまでもない。
もはや、高橋を止めるものは何者もいなかった。学生時代は無名で、押しかけ入門してきた原石の彼女を世界一のランナーに育てあげた小出義雄監督は、当時の強さをこう言った。
「高橋は黙っていたら、地の果てまで走っていってしまう」と。
高橋はランナー人生は順風満帆、向かうところ敵なしだった。
だが、見た目の華やかさとは裏腹に、意外にも高橋にとっては葛藤の連続だったのだ。その葛藤が高橋を大きくしていったのではあるが......。
明から暗へ
ところで、高橋のランナーとしてのピークはいつだったか?
小出は言う。
「とにかく、あの時の高橋は凄かったよ。スタートしてすぐに練習パートナーを置き去りにし、影さえ踏ませなかったんだからな」
あの時とは、シドニーオリンピックの前哨戦となる99年8月のセビリア(スペイン)の世界選手権だった。
「あの時、あの調子で走っていれば、2時間17分台で優に走れたと自信を持って言うよ」
ちなみに、当時の世界記録は98年のロッテルダムでテグラ・ロルーペ(ケニア)が打ち立てた2時間20分47秒。それまでは"最強ランナー"の名をほしいままにしたイングリッド・クリスチャンセン(ノルウェー)が13年間守り続けてきた2時間24分26秒である。
WRITER
- 黒井克行
- 1958年北海道旭川市生まれ。早稲田大学を卒業後、出版社勤務を経て、ノンフィクション作家として独立。著書に『テンカウント』(幻冬舎文庫)、『高橋尚子夢はきっとかなう』(学習研究社)、『高橋尚子勝利への疾走』(講談社α文庫)、『工藤公康プロフェッショナルの矜持』(新潮社)、『男の引き際』(新潮新書)などがある。日本大学法学部講師も務める。
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