指導者の系譜
第1回 背中で語る男 松本清司
ボクシング馬鹿
松本の前ではどんな不良も牙を折られた。ボクシングトレーナーの域を超えていた
実に不器用な男だった。
ボクシングトレーナー、松本清司。
業界ではその名を知られた名伯楽である。
31年間で5人の世界チャンピオンと50人余りの東洋太平洋を含む日本チャンピオンを育てた。わずか58年の短い生涯だったが、ボクシング一筋に生きた筋金入りの"ボクシング馬鹿"だ。
本人の口癖は、
「ボクシングは紳士のスポーツだ」
そして、
「ボクシングは麻薬だ」
「紳士」と「麻薬」とは矛盾するように思うが、松本自身、紳士であり、ボクシングに冒された"中毒患者"だった。
ガキ大将
熊本で生まれ育った。ガキ大将だったが、弱い者イジメを許さなかった。松本の腕っぷしを頼り、いじめられっ子たちが駆け込んでくる。松本はそんな彼らの盾になり、相手が年上だろうと大勢だろうと一人で挑んでいった。
「威張っている奴は許さんけん」
子供の喧嘩で済めばまだいい。だが、松本の正義感は半端じゃなかった。戦後、一部進駐軍の理不尽な横暴な振る舞いに、松本は子供ながらに立ち向かっていったのだ。線路に飛び込み、向かって来る進駐軍の列車に仁王立ちになった。怖いもの知らずなのか、命知らずにもほどがある。
だが、その後の松本の人生を振り返ると、この時の蛮行を単なる子供の突発的な感情と片づけることはできないのかもしれない。松本の人間性であり、それは松本のボクシングに対する真摯な取組みが証明してくれるのではないだろうか。
生涯一トレーナー
中学からボクシングを始めた松本は、"ガキ大将"の看板を下ろした。授業が終ると、真っ先に道場に駆け込み、ストレッチと縄跳びでひと汗流し、シャドーボクシングで臨戦態勢に入る。サンドバッグに拳を叩きつける頃には、誰も松本の鬼気迫る迫力に近づくことさえできなかったという。
高校では九州チャンピオン。ボクシング猛者がひしめく明治大学に進学してからも中心選手として母校のためにリングに上がった。それほどまで夢中になったボクシングだったが、プロへは進まなかった。プロの厳しさ、家族、当時のボクシングに対する世間の見方、生活等々、松本は理由を定かにはしなかったが、片時も頭の中からボクシングが離れたことはなかった。
ごく普通に会社勤めをしていた松本の元に朗報が飛び込んだ。大学の先輩で、世界タイトルにも挑戦したことのある元日本チャンピオンの米倉健司がジムを開くという。「トレーナーとして力をかして欲しい」と、頭を下げてきたのだ。
二つ返事だった。
以後、松本はジムの二階に住み込む。結婚後も長男誕生後も死ぬまで、板敷きの廊下が軋む音を上げ、一部選手の合宿所にもなっているジムが松本の住まいとなった。まさに死ぬまでボクシングと隣り合わせの生活だった。
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背中で語る男
ヨネクラジムは一時、柴田国明、ガッツ石松ら相次いで世界チャンピオンを輩出したこともあり、選手と練習生合わせて三百人を超える大所帯になった。松本はジムの隅々に目が行き届く位置で、両手を両膝に置いた中腰で彼らの一挙手一投足を見逃さなかった。
「先生(松本)はほとんど何も言わずに練習を見守っていました。だからといって手を抜いた練習は一切できません。すべてお見通しで、見ていなかっただろうと思っていたら、後から指摘されて冷や汗をかいたこともありました」
松本の下でトレーナーをしていた元日本チャンピオンの成田城健が言う。練習といえども、松本にとっては常に真剣勝負の場だったのだ。しかし、最近のボクシングジムを覗いてみると、軽快な音楽が流され、練習中の選手に笑みがこぼれている。時代は変わったとはいえ、実にほのぼのとした光景である。
当時、松本のいたヨネクラジムには男の汗臭さが充満しているだけだった。ストリートファイトでならした暴走族上がりがジムに一歩入るや、逃げ出したという逸話もあるくらいだ。
そもそも一歩間違えれば生死に関わるスポーツである。かつて、教え子をリングで亡くしたことのある松本はボクシングの怖さを身に沁みて教えられている。もちろん、その奥深さや魅力も知ってはいるが、ボクシングを「紳士のスポーツ」と疑わない松本は、単なる殴り合いではないことを証明したく、ボクシングの本質と真正面から向き合っていたのだ。
「先生の背中には目がついているんですよ」(成田)
練習で一切の手抜きができない理由でもあるが、いい加減な態度で臨むものは「直ちに立ち去れ!」といわんばかりの松本の凄さであり、すべてはボクシングに対する松本の敬意である。
厳しさの中の優しさ
松本が育てた元日本ウエルター級チャンピオン、辻本章次(現・江坂ボクシングクラブ会長)。
辻本は天才肌のボクサーで、当時としては破格のスカウト料まで積まれた逸材だった。上手さも兼ね備え、鼻っ柱も強い辻本だったが、そのプロデビュー戦だった。
試合前の計量を終え、減量から解放された辻本はラーメンとステーキを腹に入れた。さらにワインまで飲んだ。試合は6時間後だ。辻本のわがままに渋い表情の会長を横目に本来、怒りそうなはずのトレーナーの松本は黙って見守った。それどころか、松本はテーブルの下から辻本にこっそりハイライト一本とライターを渡したのである。
「先生は選手個々の性格を掴んでましたね。俺みたいな男は先生は頭ごなしにやるよりは気持ちよう送り出したほうがエエと思ったのとちゃいますか。精神面が勝負に左右するボクシングでは、ストレスを溜め込むのは煙草以上にようありませんからね」(辻本)
松本から差し出された煙草にさすがの辻本も驚きを隠せなかったというが、その心意気に発奮しないわけにはいかなかった。
「言葉は少ないオッサンやったけど、そういった粋な計らいが選手の気持ちをしっかり掴んでたんやと思うね」
人生の師
松本には六千人を超える教え子がいる。皆、世界チャンピオンを夢見てボクシングの世界に入ったが、ほとんどの者はベルトを拝むだけで志半ばにしてリングを去っていった。中には負けても負けてもやめない者もいた。ボクサーとしての能力・可能性、また体のことを考えたらやめ時である。ここまでくればボクシングの麻薬に冒された"中毒患者"でしかない。
松本が選手たちによく言うことは、
「何もボクシングだけがすべてじゃない。ボクサーとしている時間よりも引退してからの人生の方がはるかに長いんだ。リングでの経験をどう活かしていくかが大事なんだ」と。
松本はチャンピオンも育てたが、ボクシングを通じて社会に通用する人間も育てた。素行不良で高校をやめさせられたが、松本の下でボクシングだけでなく人間修業もした元日本Jライト級チャンピオン・古城賢一郎(日本料理店調理長)は、
「先生に出会っていなかったら、自分はどうなっていたか......。父親以上の存在でした」
古城は松本から「紳士のスポーツ」を教えられた一人である。
松本はやめていった選手たちとの縁を大切にした。焼鳥屋に転じた者のところに何気なく暖簾をくぐる。結婚する者、子供を授かった者、お祝いを欠かさない。
松本がこの世を去って丸14年が過ぎた。生前から教え子たちが主催する『松本会』がある。松本を囲んだ教え子たちとの親睦会である。
今年も教え子の一人、元日本Jフェザー級チャンピオン・岩本弘行が営む鮨屋で主なき会が行われた。そして、いつものようにボクサーが引退する時の儀式、テンカウントが鳴らされ、出席者一同がリンの音を頼りに松本へ感謝の黙祷を捧げた。
もはや松本は彼らにとってはボクシングトレーナーの域を超えた人生の師であった。
(終)
WRITER
- 黒井克行
- 1958年北海道旭川市生まれ。早稲田大学を卒業後、出版社勤務を経て、ノンフィクション作家として独立。著書に『テンカウント』(幻冬舎文庫)、『高橋尚子夢はきっとかなう』(学習研究社)、『高橋尚子勝利への疾走』(講談社α文庫)、『工藤公康プロフェッショナルの矜持』(新潮社)、『男の引き際』(新潮新書)などがある。日本大学法学部講師も務める。
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